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問題傾向の変化 選択肢の文章が長くなった学校も

就活のような「定型的な作文」に辟易した?

G では、最後に話があれば。

H先生 はい。逆に出なくなった学校もありますよねという話ができれば。

O先生 浅野ですね。意見作文を浅野はずっと出していたのですが、やめてしまった。学校説明会の中で質問があったと思うんですけど、同じような答えしか返って来ないからもうこちらとしても出す意味がない、いや、出す意味がないとまでは言わなかったと思うんですけど、そういうニュアンスを感じました。

G 学校説明会で話があったんですか?塾対象説明会?保護者対象の一般向け?

O先生 何らかの説明会で話があったと保護者の方から聞きました。そのかわりというか、選択肢の文がとても長くて大変です。これはもう意図的だなと思いました。

G そういう学校もありますよね。記述はそんなに出ないけれども記号選択がやたら長い。一行の記号が長いって学校は…。

H先生 聖光。まあ記述は出ますけど。

K先生 海城もですかね。記述も出るが、1つ1つの選択肢の文章が非常に長い設問もある。

M先生 市川なんか、大変だと思いますよ。長いし、難しいし。

O先生 渋幕もきついですよ。

H先生 話を戻しますが、同じ答えばっかり書いてくることに辟易してしまう先生の気持ちは分かりますね。決まったこと書かせるものなら対策できちゃう。就職活動みたいなものですよね。御社の社風が素敵でとか、やりがいを感じてとか、そんなの何百通も見てても疲弊するだけですものね。そういえば『先生はえらい』の中でそういう文章を内田樹が書いていましたね。決まりきった定型文ばかり見てるとものすごく疲れるし、それは一種の暴力だと。

Y先生 この部分は2013年大阪桐蔭で出されて、私たちも六年の授業で扱いました。

どういう言葉を浴びせられてきたか

G そう考えたら、今の大学入試改革の影響を受けた流れというのも数年たったらまた変わるかもしれないですよね。

H先生 そうですね。

M先生 きっと資料読み取ってみたいな問題、ある種我々一生懸命対策するわけですからね。大学入試改革でこういうのを出しますと言った以上数年間は当然出続けるだろうし、そうすると中学受験でもそういうものに対して対策したかどうかで合否が変わってくるようなことになる。そうしたら、またいたちごっこみたいに、そんなことばっかりやってもということになってしまうのかもしれないですね。

H先生 対策だけをしてきた人がいらなくなるというのはわかるんですけど、対策した人がというよりは、どういう言葉を浴びせられてきたかっていうところで差がでるようになっていくのかなって気がするんですよ。さっきの定型文の話じゃないけども、同じことばっかり書けばいいとか、こう言っとけばいいんだろうとか、そんなふうに高をくくらないで、もうちょっと言葉に対して真摯に先生も生徒も向き合っていくというのが、少なくとも改革の本来の趣旨なんじゃないですかね。

M先生 その趣旨を踏まえた大学入試改革の問題になるのかというと、そこには疑問もありますけど。

O先生 記述が選択式問題と大きく違う点というのは、答えがない中で自分で解答の手がかりを読み取って、自分の頭の中で組み立て、自分の言葉で説明していく。もしくは文中の言葉を使って説明していく。自分は志望校別特訓も含めて記述指導とか結構やっている方なので、記述問題を通じてその子の頭の思考過程ってのがすごく見えるんですね。だから記述指導していく中で、たとえば当初はこんな解答しか書けなかった子がだんだん解答のレベルが上がっていった、鋭さが増してきたという手ごたえを感じられる。すぐ模試の点数には出てこないとしても、たぶんもうすぐ結果も出てくるだろうっていう予兆みたいのを感じることができる。記述をやっていく意味っていうのはそういう思考レベルというか、成長したものが見られるんじゃないかというところがある。

G なるほど。素晴らしいですね。

Y先生 上位校で記述の傾向が変わってくると中堅校の方まで波及してくるっていうのがありますけど、記述書かなきゃってなった時に答案真っ白っていう子はやっぱり出たりするんですよね。ちょっとでもまずは書いてみて、それで指導や指摘を受けて修正していくっていうのは、今の話みたいに思考過程をしっかりさせていくって意味でも、あるいは後々に入試で必要になるであろうって意味でも、大切なのではないかなという。

G 早いうちからということですかね。

H先生 易しい記述でも、まずそこを書けるようになって、書けたという喜び、つまり成功体験は積ませていかなきゃいけない。考えるときは言葉で考えるわけですから。さっきのビジュアルとかたとえとか感覚的に感じるものを言葉にしていく、それってやっぱり考える過程だと思うんでよね。だから桜蔭の問題の最後にある、人間の本質に触れるような長い記述。ああいうものは、それこそ定型文で立て板に水調に書けなくても、奮闘しているところを見せれば勝負できる点はもらえるんじゃないかと思っています。たとえば2009年に出された、すごく自意識の高い女の子が自分を守るか周りに合わせていくか葛藤するという物語。あれなんか、どの参考書もどのサイトも答えが違うわけですよ。でもそれぞれ一理ある。やっぱりその問題にどれくらい真摯に取り組んでくれたか、自分の言葉で表現できたかというところで点をくれるんじゃないかと思えます。

ジーニアス四年生の授業における指導

G わかりました。みんないいこと言いますね。授業の中でも結構記述を書かせることが多いと思いますが、四年生だと一回の授業でどれくらい記述問題が出るのでしょうか。

K先生 四問ぐらいでしょうか。だいたいは二行以上の記述、たまには一行というものもあります。

H先生 四年生のクラスを複数担当していますけど、最初は割とみんな似たような言葉を使って書いてきます。だけど、徐々に何人かが抜けてきて、難しい言葉を使えるようになっていくものです。すごく本を読んでいる子がいて、そういう子たちが本の中でしか読んでこなかった言葉を、たとえば、「ハッと我に返る」「先入観にとらわれる」とかいうのを自分の言葉にして取り込んでいけたりするんです。四年生の指導では、特にその過程が見られますね。

G そういう意味では四年生の授業というのは結構重要かもしれないですね。

H先生 だから授業内ではすごくかみ砕いた言葉も使うけど、わざと難しめな言葉を使ったりして…。

O先生 そうそう。それはやりますね。六年生の教材の解答に載せるような気持ちを表す言葉でも、あえてそこで書いてとにかく触れさせてとくというか。

K先生 四年生だと言葉というよりも、伝え方のモデルケースみたいなものもやっぱり伝えたりはします。

G どういうことですか?

K先生 言葉を変えると「記述の型」ということでしょうか。たとえば、物語文で心情が問われた場合、心情だけで記述を作るのではなくて、それが生まれた理由と合わせてワンセットで答えると説得力が増しますよね。また、心情の説明で「驚き」や「不思議」に関することであれば「予想と結果」が理由となるという型もあります。で、四年生にもこういう風にやってみるといいよって型を伝えてあげると、それが発想の手助けになって、手の動かない子が動かせてみたりすることもありますよね。

G 対比と因果関係というのはどれくらいからですか?言葉までは使わないですか?

Y先生 対比、因果関係という用語を積極的に使うわけではありません。けれども三年生の授業であっても、「あの二文字を使ったらうまく説明できるよね」とか言って「のに」を用いて記述すればいいんだと気付かせるなど、よい記述を導き出すために意識しています。

G そういうのが形づくられていくのが四年生のところあたりだということですかね。

四年生になれば、客観視できるように

H先生 三年生までは、あなただったらどう思う?ということでよかったんですよね。だけど四年生だったら、自分は違うけれどもこの登場人物だったらこう思うんじゃないか、というふうに考え方もシフトしていってほしいですよね。

M先生 そうなんですよ。でもそういう時に、そんな気持ちわからないとかいう子が必ずいるものですよね。

H先生 絶対います。最近の教材でいうと、給食が苦手な主人公の話になったとき、うちの学校は給食ないから知らないとか、あたしサバの味噌煮食べられるから全然その気持ちがわからないとか。

G そうなってしまうと、伸びないですか?

H先生 伸びないです、それを言いだした段階で。ただ、わかっていてわざと言ってる子もいますけど。

M先生 斜に構えている子は賢いがために言うこともあるので、さらっと流したりしますよね。斜に構えるわけでもなく、ほんとにそう思っちゃてるとまずいと思います。そういう時は、あなたがそうであっても読み取っていく必要があると、わりとはっきり指摘するようにしています。

H先生 自分と違う立場の人とか、前回の座談会で出た2018年麻布の言葉の通じない人とか、そういう人が出てくると、ああわかんない、いいやとシャットアウトしてしまう。

K先生 国語という教科は「他者を想像すること」と切り離せない教科ではないかと思います。想像する練習、というか。文章の中の登場人物、出題者、採点者など、いろいろなことを想像し、こちら側の気持ちを寄せていくことが必要な教科だと個人的には思っています。国語を通じて養った想像する力は、生きていく上でもきっと大切になることだと考えています。

以上で、座談会第3回は終了です。お読みいただき、ありがとうございました。

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